還すあてのない傘の話(途中)

テスト期間中の帰り道、傘を持たず雨宿りしている影山くんから端を発した及影の話です

※及川さんに難があります。(後でR指定が入る予定です)なんでも許せる方向け

 

 

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 六月の初めごろから空を覆った重く圧し掛かる様な雨雲と、天上から落ちてくる雨粒がぱらぱらと路面を黒く濡らしだしたのは、ほんの数分前の事だった。路上に落ちた水滴が端から水溜りを作り、路面を流れ出して側溝やマンホールへと流れてゆくさまを見つめて、ふと、雨が作った水の流れから視線を上に移せば、降りしきる雨で視程は悪くなっていた。先程までくっきりと見えていた筈の二つ先の電柱の姿がはっきりと見えないのだ。参った。一先ず降り出した雨が止むまでの一時しのぎで書店の軒下に身を寄せたは良いものの、まさか本降りになるとは思っていなかったのだ。目を凝らして軒下から雨雲の切れ間を探したが、空は隙間なく分厚い雲が覆っていて望んだものは見当たらなかった。参った。小さく落胆の息を洩らして、もう一度空を見上げた。今朝ちらりと確認した予報では二分の一だった筈で、残りの半分に賭けた自分の負けを知る。雨の勢いは収まる様子はなく、激しくなる様子もないし弱まる素振りも無い。どうにもならないものは仕様がない。このまま雨の中を走って帰れば十分ほどで家に着くだろうけれど濡れた制服は後で乾燥機に突っ込まなければならない。このまま待っていても埒が明かないので雨の中を突っ切る算段を立てた。軽く伸びをし、いざ、と爪先に力を入れたところで書店に近づくふたり分の足音が耳に届いた。

 俺は書店を背に正面に向って走る構えを取っていたので自分が突っ切るつもりの道以外を注意を払ってはいなかったのだ。左右の道から車やバイク等が来ていないかの簡単な確認だけ済ませるつもりで、その足音のした方を見た。ひとつの傘を挟んで仲良く歩いて来る男女の制服があの高校のものでなければ、きっと傘を差すその人の顔すら確認せずに走って行ったと思う。走り出そうとグッと爪先に力を加えた状態で、足は地面から離れる事なくびたりと貼り付いてしまった。

 

「……あ」

「……うわ」

 

 傘を差すその人はさも嫌そうな様子を隠しもせずに口をへの字に曲げた。俺は咄嗟に頭を下げた。格好は依然として走り出す直前のままだ。

 

「及川さん、ちわっす」

「なに、お前もテスト期間?」

 こちらの様子をじろりと見て及川さんはそう言った。

「そうですケド…なんで分かるんスか」

「制服着てるし、バレー馬鹿なお前がこんな時間に帰ってること自体それぐらいしか理由ないだろ」

「な、なるほど」

 ぐうの音も出ない程的確に出された推論に俺はたじろぎながらそう応えた。すっかり鼻白んだ様子で及川さんは書店の軒先に入って傘を閉じた。傘が降ろされて、少しかがんだ広い肩の向こう側から大きな吊り目の目鼻立ちのはっきりした女の人が見えた。俺は少し息を呑んでぺこりと頭を下げた。

 

「こんにちわ」

「……あ、ちわっす」

 

 少し傾けた身体から遅れて下した長い黒髪がさらりと揺れて、雨の匂いの中で何だか艶のある人だな、と思った。傘を畳んで店の外に設置された傘立てに突っ込んだ及川さんはサラッとそのまま書店に入ろうとしている。

 

「及川さんも、テスト期間なんですか?」

「そうだよ。これから参考書買って彼女と勉強すんの」

「へぇ……」

 

 そのまま無視されて書店に入られるのも惜しくて、気が付けば必死に言葉を掛けていた。にも拘らずだ、我ながら分かり切った事をきいたものだと自分の間抜けさを自覚した上にどえらい地雷まで踏んでしまった。……彼女か、今からふたりきりで勉強すんのか。自分から声を掛けたにも拘わらず、何と返したらよいか分からなくなって、結果的に妙な生返事しか出来なかった自分の間抜けぶりを呪った。呼び止めてしまったせいで店の扉の前止まったままの及川さんは俺に冷たい視線を投げてきている、先輩からのプレッシャーからか妙な冷汗が浮かんで垂れた。いや、これは自分の蒔いた種なので仕方が無い。気まずい空気と視線から逃げる様にして「じゃあ、俺はこれで」そう言って、先程走り出す直前のままだった自身の体勢を突然思い出したように焦って切り出し、後は『失礼します』と口にしそのまま走ってしまおうと思った時だった。

 

「バカ。そのままで行くつもりかよ。風邪ひくだろ、なんで傘持ってないんだよ、バカ」

 立て続けにそう言って及川さんは自分のバッグの中からなにかを取り出して俺に投げた。投げて寄越されたそれが宙を舞っている間に、俺に向けた声のトーンとは明らかに違う優しいもので及川さんは彼女に「先に入ってて」と伝えた。俺はその間も咄嗟に宙に舞っているそれを落とさない様に慎重に両手を前に出して宙でくるりと回転しながら落下するそれを上手く掌のうえに受け取ることに成功した。先輩から投げ寄越さてたそれを無事に受け取れたことに安堵し、手の中に収まったのが傘である事に唖然としながら「だって、予報は五十パーセントだって言ってたんで」と戸惑いを隠すことが出来ないまま及川さんの先程の質問に小さくそう応えたが「あれは、対象地域の五十パーセントの地域で降りますって予報であって、対象地域全域が降るか降らないかの確率じゃないからな」とすかさず相変わらずの容赦のなく叩き込まれて「そうなんすか……」と今しがた知らされた事実に絶望する始末だ。なのに受け取ってしまった傘とその口調らの印象があべこべで、傘と及川さんの顔を見比べた。でもどうしたって俺の頭じゃ及川さんの意図は分からなかった。

 

「それ使えよ。別に返さなくてもいいし」

「そんな、返します」

「……いいんだけど。まぁ、好きにすれば」

「ありがとうございます」

 そう言って頭を下げると及川さんは興味無さそうに今度こそ店の中に入って行ってしまった。両手で掴んでいる寄越された及川さんの傘をまじまじと見てしまう。何の飾り気のない黒色の折り畳み傘だ。その留め具を丁寧に外して、ゆっくりと開いた。錆ひとつ無い綺麗な状態から見ても、大事に使ってある物に違いないのだと分かる。後輩を見かねて貸してくれたものだと感じながら、それでもこんな大事なものを返さないわけにもいかない。及川さんが貸してくれた傘を差して降りやまぬ雨の中を歩いた。傘の布地を打つ雨の音が、何故か酷く優しく耳に届いた。

 

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「……マジに返しに来たのかよ」

 常の丁寧な言葉遣いとは違って辟易しつつそう言い、剥き出しの感情を含んだ言葉を晒す及川さんは表情にも言葉と同様のものを貼り付けていた。試験期間中に幾日か続いた雨が上がり、やっと訪れた晴れに乗じてあの時借りた傘を持って及川家の呼び鈴を押したのは中間考査の丁度真ん中の日だった。

 

「ありがとうございました、お陰で濡れずに済んだので風邪ひきませんでした」

「あ、そ。まぁ、濡れたところでお前は風邪ひかないだろうけどね」

「……なんでですか?」

 及川さんが口にした意味が分からなかった。ポカンとした後に疑問に思ったのでそのまま口にしたら酷く嫌な顔をされて聴こえよがしにデカい溜息を吐かれた。

 

「お前のそういうところがホント嫌だわ」

「ぐ……サーセン

「意味わかってねぇのに謝んないでよ」

「ぐぬ……」

 

 嫌と言われた上に謝れば的確に痛いところを突かれて何も言えなくなった。ただ傘のお礼を言って返すために来たのにも拘わらず、何故俺はこんなにもじわじわと嬲られる様に嫌味を言われねばならないのか。自分はこの人に嫌われているかもしれない、とは、思ってはいたが、それを突きつけられている様で何だか少し胸が痛い。取り付く島もなく、手の中に収まったままの傘を渡すタイミングが見つからない。

 

「それで?わざわざ届けに来てくれたんだ。ありがと」

 前屈みにして俺の顔を下から覗き見る及川さんからはぬるりとした視線で俺を探りながら煽る。獲物を見定める捕食者の様な緊張感に思わず唾を呑んだ。けれどもやっと得た機会をこのまま逃したくはない。意を決して両手に収まったままの傘を勢いよく前に突き出し、俺は漸く言葉を発することが出来た。

 

「あの、コレ、ありがとうございましたッ」

 そのまま反射的に後ろに走って逃げそうになる下半身を叱咤して何とか留めてそれだけ一気に言い切った。顔面と背面には先程から妙な汗が垂れている。及川さんから感じる圧に因るものだった。傘を返してそのまま帰る傘を返してそのまま帰る。呪文の様に同じ言葉を何度も反芻する。逃げ出したくなる本能を理性でセーブしようと必死だった。傘を差し出して暫く経ったが、及川さんはそれを受け取る様子がなかった。何故及川さんは受け取らないんだろうか。そっと伺う様に薄目で及川さんのほうを見た。ぎらりとした眼がじっとこちらを見ていた。ゾッとした何かが背筋を這った。それは俺の挙動のひとつも洩らさぬように観察しているのだと、そう気づいて臓腑が冷えた瞬間、その気配を布一枚隔てた向こう側に隠してしまったそのひとは柔らかく微笑んだ。俺じゃない他人なら違和感なく思うのだろうか、そんな柔らかなものなど向けられたことのない俺には、それが、とても恐ろしいものに思えてならなかった。先程からずっと頭の中で警鐘が鳴っている。心臓が早鐘の様に脈が打っている。本能がヤバいと叫んでいた。

「……わざわざ来たんだし、ここで返すのも何だし。上がっていけば?」

 顔に優しい微笑みを貼り付けながら、及川さんは突き出した俺の手首ごと手に取った。本能に従うならば、俺はこの手を振り払って今すぐ逃げた方がいいに違いなかった。けれどどうしても全て絡めとる様なぬったりとした甘い誘惑に、贖えなかった。及川さんは動けない俺を促すように柔らかくゆっくりと扉のなかへと引き込んだ。

 

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