還すあてのない傘の話(途中)

テスト期間中の帰り道、傘を持たず雨宿りしている影山くんから端を発した及影の話です

※及川さんに難があります。(後でR指定が入る予定です)なんでも許せる方向け

 

 

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 六月の初めごろから空を覆った重く圧し掛かる様な雨雲と、天上から落ちてくる雨粒がぱらぱらと路面を黒く濡らしだしたのは、ほんの数分前の事だった。路上に落ちた水滴が端から水溜りを作り、路面を流れ出して側溝やマンホールへと流れてゆくさまを見つめて、ふと、雨が作った水の流れから視線を上に移せば、降りしきる雨で視程は悪くなっていた。先程までくっきりと見えていた筈の二つ先の電柱の姿がはっきりと見えないのだ。参った。一先ず降り出した雨が止むまでの一時しのぎで書店の軒下に身を寄せたは良いものの、まさか本降りになるとは思っていなかったのだ。目を凝らして軒下から雨雲の切れ間を探したが、空は隙間なく分厚い雲が覆っていて望んだものは見当たらなかった。参った。小さく落胆の息を洩らして、もう一度空を見上げた。今朝ちらりと確認した予報では二分の一だった筈で、残りの半分に賭けた自分の負けを知る。雨の勢いは収まる様子はなく、激しくなる様子もないし弱まる素振りも無い。どうにもならないものは仕様がない。このまま雨の中を走って帰れば十分ほどで家に着くだろうけれど濡れた制服は後で乾燥機に突っ込まなければならない。このまま待っていても埒が明かないので雨の中を突っ切る算段を立てた。軽く伸びをし、いざ、と爪先に力を入れたところで書店に近づくふたり分の足音が耳に届いた。

 俺は書店を背に正面に向って走る構えを取っていたので自分が突っ切るつもりの道以外を注意を払ってはいなかったのだ。左右の道から車やバイク等が来ていないかの簡単な確認だけ済ませるつもりで、その足音のした方を見た。ひとつの傘を挟んで仲良く歩いて来る男女の制服があの高校のものでなければ、きっと傘を差すその人の顔すら確認せずに走って行ったと思う。走り出そうとグッと爪先に力を加えた状態で、足は地面から離れる事なくびたりと貼り付いてしまった。

 

「……あ」

「……うわ」

 

 傘を差すその人はさも嫌そうな様子を隠しもせずに口をへの字に曲げた。俺は咄嗟に頭を下げた。格好は依然として走り出す直前のままだ。

 

「及川さん、ちわっす」

「なに、お前もテスト期間?」

 こちらの様子をじろりと見て及川さんはそう言った。

「そうですケド…なんで分かるんスか」

「制服着てるし、バレー馬鹿なお前がこんな時間に帰ってること自体それぐらいしか理由ないだろ」

「な、なるほど」

 ぐうの音も出ない程的確に出された推論に俺はたじろぎながらそう応えた。すっかり鼻白んだ様子で及川さんは書店の軒先に入って傘を閉じた。傘が降ろされて、少しかがんだ広い肩の向こう側から大きな吊り目の目鼻立ちのはっきりした女の人が見えた。俺は少し息を呑んでぺこりと頭を下げた。

 

「こんにちわ」

「……あ、ちわっす」

 

 少し傾けた身体から遅れて下した長い黒髪がさらりと揺れて、雨の匂いの中で何だか艶のある人だな、と思った。傘を畳んで店の外に設置された傘立てに突っ込んだ及川さんはサラッとそのまま書店に入ろうとしている。

 

「及川さんも、テスト期間なんですか?」

「そうだよ。これから参考書買って彼女と勉強すんの」

「へぇ……」

 

 そのまま無視されて書店に入られるのも惜しくて、気が付けば必死に言葉を掛けていた。にも拘らずだ、我ながら分かり切った事をきいたものだと自分の間抜けさを自覚した上にどえらい地雷まで踏んでしまった。……彼女か、今からふたりきりで勉強すんのか。自分から声を掛けたにも拘わらず、何と返したらよいか分からなくなって、結果的に妙な生返事しか出来なかった自分の間抜けぶりを呪った。呼び止めてしまったせいで店の扉の前止まったままの及川さんは俺に冷たい視線を投げてきている、先輩からのプレッシャーからか妙な冷汗が浮かんで垂れた。いや、これは自分の蒔いた種なので仕方が無い。気まずい空気と視線から逃げる様にして「じゃあ、俺はこれで」そう言って、先程走り出す直前のままだった自身の体勢を突然思い出したように焦って切り出し、後は『失礼します』と口にしそのまま走ってしまおうと思った時だった。

 

「バカ。そのままで行くつもりかよ。風邪ひくだろ、なんで傘持ってないんだよ、バカ」

 立て続けにそう言って及川さんは自分のバッグの中からなにかを取り出して俺に投げた。投げて寄越されたそれが宙を舞っている間に、俺に向けた声のトーンとは明らかに違う優しいもので及川さんは彼女に「先に入ってて」と伝えた。俺はその間も咄嗟に宙に舞っているそれを落とさない様に慎重に両手を前に出して宙でくるりと回転しながら落下するそれを上手く掌のうえに受け取ることに成功した。先輩から投げ寄越さてたそれを無事に受け取れたことに安堵し、手の中に収まったのが傘である事に唖然としながら「だって、予報は五十パーセントだって言ってたんで」と戸惑いを隠すことが出来ないまま及川さんの先程の質問に小さくそう応えたが「あれは、対象地域の五十パーセントの地域で降りますって予報であって、対象地域全域が降るか降らないかの確率じゃないからな」とすかさず相変わらずの容赦のなく叩き込まれて「そうなんすか……」と今しがた知らされた事実に絶望する始末だ。なのに受け取ってしまった傘とその口調らの印象があべこべで、傘と及川さんの顔を見比べた。でもどうしたって俺の頭じゃ及川さんの意図は分からなかった。

 

「それ使えよ。別に返さなくてもいいし」

「そんな、返します」

「……いいんだけど。まぁ、好きにすれば」

「ありがとうございます」

 そう言って頭を下げると及川さんは興味無さそうに今度こそ店の中に入って行ってしまった。両手で掴んでいる寄越された及川さんの傘をまじまじと見てしまう。何の飾り気のない黒色の折り畳み傘だ。その留め具を丁寧に外して、ゆっくりと開いた。錆ひとつ無い綺麗な状態から見ても、大事に使ってある物に違いないのだと分かる。後輩を見かねて貸してくれたものだと感じながら、それでもこんな大事なものを返さないわけにもいかない。及川さんが貸してくれた傘を差して降りやまぬ雨の中を歩いた。傘の布地を打つ雨の音が、何故か酷く優しく耳に届いた。

 

 *

 

「……マジに返しに来たのかよ」

 常の丁寧な言葉遣いとは違って辟易しつつそう言い、剥き出しの感情を含んだ言葉を晒す及川さんは表情にも言葉と同様のものを貼り付けていた。試験期間中に幾日か続いた雨が上がり、やっと訪れた晴れに乗じてあの時借りた傘を持って及川家の呼び鈴を押したのは中間考査の丁度真ん中の日だった。

 

「ありがとうございました、お陰で濡れずに済んだので風邪ひきませんでした」

「あ、そ。まぁ、濡れたところでお前は風邪ひかないだろうけどね」

「……なんでですか?」

 及川さんが口にした意味が分からなかった。ポカンとした後に疑問に思ったのでそのまま口にしたら酷く嫌な顔をされて聴こえよがしにデカい溜息を吐かれた。

 

「お前のそういうところがホント嫌だわ」

「ぐ……サーセン

「意味わかってねぇのに謝んないでよ」

「ぐぬ……」

 

 嫌と言われた上に謝れば的確に痛いところを突かれて何も言えなくなった。ただ傘のお礼を言って返すために来たのにも拘わらず、何故俺はこんなにもじわじわと嬲られる様に嫌味を言われねばならないのか。自分はこの人に嫌われているかもしれない、とは、思ってはいたが、それを突きつけられている様で何だか少し胸が痛い。取り付く島もなく、手の中に収まったままの傘を渡すタイミングが見つからない。

 

「それで?わざわざ届けに来てくれたんだ。ありがと」

 前屈みにして俺の顔を下から覗き見る及川さんからはぬるりとした視線で俺を探りながら煽る。獲物を見定める捕食者の様な緊張感に思わず唾を呑んだ。けれどもやっと得た機会をこのまま逃したくはない。意を決して両手に収まったままの傘を勢いよく前に突き出し、俺は漸く言葉を発することが出来た。

 

「あの、コレ、ありがとうございましたッ」

 そのまま反射的に後ろに走って逃げそうになる下半身を叱咤して何とか留めてそれだけ一気に言い切った。顔面と背面には先程から妙な汗が垂れている。及川さんから感じる圧に因るものだった。傘を返してそのまま帰る傘を返してそのまま帰る。呪文の様に同じ言葉を何度も反芻する。逃げ出したくなる本能を理性でセーブしようと必死だった。傘を差し出して暫く経ったが、及川さんはそれを受け取る様子がなかった。何故及川さんは受け取らないんだろうか。そっと伺う様に薄目で及川さんのほうを見た。ぎらりとした眼がじっとこちらを見ていた。ゾッとした何かが背筋を這った。それは俺の挙動のひとつも洩らさぬように観察しているのだと、そう気づいて臓腑が冷えた瞬間、その気配を布一枚隔てた向こう側に隠してしまったそのひとは柔らかく微笑んだ。俺じゃない他人なら違和感なく思うのだろうか、そんな柔らかなものなど向けられたことのない俺には、それが、とても恐ろしいものに思えてならなかった。先程からずっと頭の中で警鐘が鳴っている。心臓が早鐘の様に脈が打っている。本能がヤバいと叫んでいた。

「……わざわざ来たんだし、ここで返すのも何だし。上がっていけば?」

 顔に優しい微笑みを貼り付けながら、及川さんは突き出した俺の手首ごと手に取った。本能に従うならば、俺はこの手を振り払って今すぐ逃げた方がいいに違いなかった。けれどどうしても全て絡めとる様なぬったりとした甘い誘惑に、贖えなかった。及川さんは動けない俺を促すように柔らかくゆっくりと扉のなかへと引き込んだ。

 

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酔いに沁みる静纏の星灯り(SS)

※及影

 

何の気なしに書いたものなので、前後はないです。

 

 

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 少し調子の外れたご機嫌な鼻歌をバックミュージックに、ふたりとも薄く酒気を纏って、火照った身体を冷ますように街灯が灯す夜の中を歩いていた。ふたりの間には丁度ひとが一人分の間が有り、鼻歌に合わせてステップを踏む及川さんの後ろに追いていく形でポツポツと歩を進める。ふわふわとした足取りで側溝に寄っていくそのひとに「危ないっスよ」と声を掛けると「酔ってねぇし」と返って来る。酔っていない人間は先ずそんな事は言わない。冷たい風が頬を撫でてゆき、目の前に吐く息が白く昇ってゆく。歩くことで酔いとは違う熱が身体を温めだした頃、やっとひとが常駐しているのか怪しい駅についた。何度見ても改札口で電子ICの認証スポットを探したけれど見つからず、もしやと思ってもう一度確認すればそこには切符用の吸い込み口しか無かった。驚愕に打ちのめされそうになって数歩後ろを振り返ると及川さんは「券売機向はあっち」とにやついた表情で券売機の有る方向を指さしながらこちらを見ていた。なんて憎らしいんだろうか。分かっていたなら先に言って欲しかった。くそ、酔っていても目敏い上に、意地の悪さは素面の時と変わらないなんて質が悪い。舌打ちを打ちそうになって寸でで止め、俺は顔を顰めるだけに何とか留めた。人目さえ気にしなければ構わず地団太を踏んだかもしれない、けれど年配者の前で、しかも恋人の前で、礼を欠くのも避けたい、まさかこれ以上の醜態を晒せる訳が無かった。ただでさえほろ酔い気分で笑いの沸点が下がっていう及川さんの事だ。きっと涙を飛ばしながら腹を抱えてゲラゲラ笑うだろう、そんな事など容易に想像がついた。運良く終電より二本前の電車に乗る事が出来た。一両編成のワンマン電車に乗客は俺たちと、他にスーツ姿のサラリーマンが数人まばらにバッグを胸に抱えて背もたれに身体を預けていた。ガラガラの車内をぐるりと見渡して、俺たちは誰も腰掛けていない四人がけのボックス席に向かい合って腰を落ち着けた。店を出てからここまでの時間を俺たちは殆ど口を開かなかった。ふたりで歩く時間が心地よかったのもあるし、鼻歌の他には遠く車が行き交う音が聞こえるだけの夜中の静かな町のなかを往くふたり分の足音にじっと耳を傾けていたからだ。何気ないふたりだけの空間を味わっていたかった。

 

『海に行くぞ』飲んでいた居酒屋を出てすぐ、唐突に思いついたかのように及川さんはそう口にした。『今からっスか?』ギョッとして腕時計の時刻をもう一度確かめた。時計の針は終電に近い時刻を指していた。海へ向かう沿線は既に終わっている可能性も高いのでは、そう口にする前に及川さんは俺の腕を引いて迷わず最寄り駅に向って進みだしたのだ。

 

 窓際に腰を掛けていた及川さんが身を乗り出してガラスの向こう側を覗いた。「星だ」とろりとした声で小さくそう言った。「車内から見れるんスか」俺がそう言うと挑発するようにこちらを見て「自分の影を覗き込んで見ろよ」と言う。のそりと窓際に移動してその通りに窓の向こう側を覗くと、闇に紛れ流れる風景のなかに上空に広がる星々が見えた。冬の澄んだ空気のせいか極細かな粒の光まで鮮明に見える。及川さんはゆっくりと優しく笑う。俺たちはそれから物も言わず、海へ着くまでの間、窓ガラスに貼り付く様に夜空に瞬く星々の光を見上げた。

青きユピテルの幻光(進捗) 冒頭

 ちまちま書いて消して書いて消して継ぎ足して、みたいな、迷走しつつ。ここまで書けましたー、という報告です。

 

 

以下、冒頭です。

 

※及影前提の猛→徹、の猛視点のお話。

 

 

 

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 東京駅十六時五十六分発のはやぶさ百五号に飛び乗ったのは七月後半に入った茹だる様な暑さのなかだった。両足が車両に着地して数秒後、背後に締まる扉の気配に安堵して大きな息を吐いた。次いで急に思い出したかのようにドッと重い脈を打ち出した心臓が身体から飛び出んばかりに暴れ出し、汗が一気に毛穴から噴き出して流れ落ちた。ボタボタと床に大きな雫が数滴落ち、先に乗っていた乗客は、そんな俺を見て驚いた顔をした。それもそうだろう、タクシーの降り場から全走力をかけて駅の構内を突っ切り、改札口もエスカレーターも抜けて喉に掛かる息苦しさもはち切れそうなふくらはぎも叱咤してここまで走って来た。発車間際の車両に飛び乗って来たかと思えば、滝の様に汗を流して死にそうな呼吸を繰り返す男に警戒しないわけがない。「大丈夫ですか」心配そうな女性の声と共に差し出されたハンカチを手と首を僅かに振る事で何とか断った。リュックのポケットからタオルを取り出して止めどなく噴き出す汗を抑える、タオルの中で呼吸を落ち着けるようにゆっくりと息を吸い、肺を膨らませて細く息を吐いた。何度も繰り返すうちに随分と落ち着いたところで、いつの間にやら捻じれてしまったリュックの肩ひもを正して背負い直し、「大丈夫です」と顔を上げて出来るだけ柔らかな表情でそう返した。ハンカチを差し出してくれたのは、赤ちゃんを胸に抱えた二十代前半くらいの女性だった。「お騒がせしました」そう言うなり小さく微笑んだそのひとに会釈をして、車両内へと歩を進めた。なかは帰省する学生や旅行から帰る客で賑わっていた。随分と進んだところで、窓際にひとつ空席を見つけてやっとゆっくりと腰を下ろした。ずっしりと重量のあるリュックを背から下して腿のうえに置き、大事に抱えて、身体を座席の背もたれに深く沈みこませる。そのまま故郷までの道のりを新幹線に身を委ねて揺られながら、車窓の外を流れる景色を眺めた。夏の日は高く、こんな夕刻時の移動でもしっかりとした陽射しの強さがある。この時期、この時間帯の景色を見ては言い表しようのない焦燥を感じるのは、学生時代に打ち込んだものの影響に違いなかった。その日一日の授業を終えては、荷物の詰まったバッグを担いで体育館に向った。終業式を迎えてからは月曜以外の週六日、朝からとっぷりと暮れるまで。きっちりしごかれ、疲れた身体で頼りない街灯が家路の暗さを申し訳程度照らしているなか歩いた。嫌な思いも苦い思いも、心が躍り興奮した瞬間も、愉しい思い出も詰まった、あの尊い三年間を思い出しては今もじんわりと心に拡がってゆくものがある。懐かしい日々に思いを馳せていると、ジーンズのポケットが僅かに振動した。そこに入れていたスマホを取り出しつつ、微かとは言い難い緊張が走るのを感じながら、恐る恐る画面を見て、ホッと胸を撫で下ろした。

 

『ありがとう。道中気を付けて。皆待ってるよ』本日で三十七度目になる祝いに、今朝言葉を送ったものの返事だった。温かみと親しみが滲む短いメッセージに添えて、如何にも賑やかな我が家の様子が分かる一枚の写真が送られてきていた。元々の面子に、新たに加わった面々等、画面の向こう側は大層色んな声が飛び交っていそうな、そんな写真だった。写っている全員が弾けんばかりの笑みに、または不器用ながらの精いっぱいの笑みに溢れていた。いい写真だ。画面を眺めて、そう俺は思った。たった三文で出来たメッセージを開くのに緊張し、読んで安堵する。未だ、自分のなかでの繊細な位置にいる叔父という存在の大きさを知らしめるに充分だった。俺は自分への呆れを吐き出すように大きな溜息をひとつして、もう一度車窓の外を眺めた。胸に今も残る複雑な感傷などお構いなしに風景が物凄い勢いでどんどんと後方へと流れてゆく。こんな速さでは旅情も何も無いだろうな。胸に抱えたものとは裏腹にそんな考えが頭を過ぎって、静かに揺られながら目まぐるしく変わっては流れ去ってゆく風景に没頭した。

 

 *

 

 仙台駅のプラットホームに緩やかに車両が進入し静かに止まったのは定刻通りの十八時二十九分の事だった。到着を知らせるアナウンスが流れ、まばらに降車の準備をする他の乗客たちと一緒に腿に乗せていたリュックを後ろに背負って、淡々と車両からプラットホームへと足を降ろした。乗客たちの流れに沿って改札を抜け、駅の構内より一歩外に出ると、漸く夏の仙台の涼しい湿った風が頬を撫でた。ヒグラシの物憂げな鳴き声を受けながら、暮れかかってゆく淡い空とオレンジの陽の色に薄く染まる雲を仰ぎ見て、ゆっくりと大きく息を吸う。東京とは違って木々の香りが混ざる空気に、仙台の穏やかな夏の気配を感じて、およそ半年ぶりになる故郷の地を踏んだ実感がやっと湧いてきた。じんわりと来る懐かしさと、生まれ育った土地に帰って来た安心感がゆるやかに胸に広がってゆくのを感じながら先ほどのメッセージに返信を打った。『今仙台駅に着いた。これからタクシーで帰る』送って暫くしてスマホがまた揺れた。『はーい』短い上に、四捨五入すれば齢四十になる男の返信としては幼く、且つ軽く感じる。実際にそう口にした様子が容易に想像できて、思わず小さく噴き出した。久方ぶりの再会に、胸が躍る。それと同時に不安もよぎる。一体、俺は、どんな顔をして徹に会えばいいのだろうか。それが俺にとっては一番手前に見える厄介な難題にも見えた。

 

 

 胸の中の複雑な感傷など些末なものに過ぎないのではないか。久々の帰省で辿り着いた実家に歓迎されて、あれよあれよと賑やかな宴の中に引き込まれ揉みくちゃにされ、数時間後に酔いつぶれた祖父をその輪から引きずり出して布団に寝かせ、「はぁ」と溜息を吐きながら、そう思わずにはいられなかった。我が家の面々は皆朗らかで賑やかで、安らぎや静けさなんてものとは縁遠いもののように思える。そうした環境のなかで育ったせいもあるのか家族のなかでは流されやすい性質もそれを加速する要因でもあるとは思うが、そうした悩みなど頭の隅に追いやってしまいそうなエネルギーが漲っている。家のドアノブに手をかけるまで確かにあった感傷も難題も、賑やかさと及川家の喧騒に流されていつの間にやら追いやられてしまっていた。家族は久々に帰って来た徹に喜び、また寿ぎに夢中になっていた。そんな中で、流され追いやられていた筈のものがまだ何処かに残っていて、それが少しの気後れを生んで、心からの祝いにならずに踏み切れずにいる自分が嫌でもあった。酔いが回って頬を染めて幸せそうに眠る祖父の顔を確認して、祖父母の寝室から宴会会場へと向かい、そっと障子戸から顔を覗かせて、「俺、明日の準備もあるから。この辺で」と自室に戻る事を告げると、本日の主賓はほろ酔い加減で機嫌良く、にへら、と間の抜けた笑みを向けて手を振った。祖父譲りかそう酒に強くない相手に表情も無いまま「はぁ」とまたもや溜息が出る。弱いにも拘らず、何故人間は嬉しいと酒を酌み交わしたがるのか。祖父にしろアイツにしろ、明日面倒な事にならなきゃ良いけどな。そんな一抹の不安が頭を過ぎり、俺は頬を引き攣らせながらそっと座敷の戸を閉めた。

 

 久々の自室に、深く息を吸い込むと懐かしい畳の匂いがふわりと香って、肩に入っていた力が抜けていくのを感じた。家族の歓迎とは別の、変わらずここにあるという居場所の存在がひとつの安定した平穏をもたらすものでもあり、心に多少のくすぐったさを感じる。不変の安定感がホッと緊張を解してくれる、そんな気がする。先ほどの賑やかさが遠退いて、この半年の疲れを解す様に一度大きく伸びをした。東京から大事に背負ってきたリュックを静かに開いて部屋の隅に置かれた文机の前に腰を降ろした。圧縮袋に詰め込んだ着替えと、カメラ二台と予備を含めたレンズ四本とバッテリーをひとつずつ丁重に取り出して机の上に置いてゆく。ずらりと並んだそれらを端からひとつひとつ細部まで丁寧に確認し、汚れと動作確認まで一通り行って、リュックからクリーニングキットを取り出した。事前に東京の自宅で一通りの手入れをしてはいるが、撮影に備えての一種の精神統一の様なルーティンでもあるし、機材と向き合う対話の様なこの時間が自分にとってはある種の儀式に向かう前の禊の様にも思っている節がある。ブラシでゆっくりと埃を払う小さな音が静かに響く。相棒を丁寧にブラッシングして小さな傷すら大事に撫でてゆく。この時間が好きだ。ブロワーで隙間に入り込んだ細かな埃を飛ばし、レンズの小さな汚れひとつなく拭き上げる。レンズを拭く際には息を止めて指先に細心の注意を払う。そうしてレンズを確実に磨き上げていくうち、いつの間にか上唇の端を舐める様にぺろりと舌が出ていた。最後の一本を磨き終わって、机にゆっくり置いた際にその事に気が付いた。「性格もまったく似ていないのに、そういう所は似るのかね」小学六年の夏の課題に集中してる時に祖母が優しい苦笑を洩らしながら口にした言葉だ。誰に。そう問う前に頭に浮かんだ顔があった。祖母がそういう少し苦く優しい微笑みを浮かべる時は決まって叔父の事を思い出す時だ。豪気で真っ直ぐな祖母にそんな表情は似合わないと子どもながらに思ったもので、その度に何かが胸につっかえては軋む苦さを噛みしめた。少し寂しそうな表情に何とも言い難いものが込み上げて、俺は決まって「おばあちゃん、おやつ!」と唐突に強請り、先ほどまで寂しそうだった祖母は、そういうと「本当に猛は」と、小さく噴き出しながら戸棚から菓子を出してくれたのだ。よく懐いた叔父に似ているという嬉しさは、同時に寂しさの呼び水となってしまう。手放しで喜べないストッパーが、心の何処かにいつの間にか出来ていた。けれども祖母の感傷の呼び水になるからと言って、一緒に育った時間の分だけ、仕草が似てしまう事は致し方が無かった。無自覚にそれらが出てしまう時、そしてその瞬間に祖母と自分の脳裏には叔父の姿が甦るのだ。そうして確かに叔父との思い出を懐かしむ祖母に叔父の存在を寄り添わせる事が、果たして良い事か悪い事か判然としなかった。心にはほんの些細な靄が出た。無自覚に出てしまう無意識の仕草は、もしかすると、『祖母に徹を忘れて欲しくない』と言った深層心理での欲求が有ったのかもしれない、と最近になって思うのだ。叔父を彷彿とさせるそれらの仕草で祖母がそんな表情をする度、互いに自傷してしまう様な感覚もあったというのに、自分のなかにある徹と似たそれらを重ね合わせ、叔父を懐かしんで苦笑を洩らす祖母を無理やりに笑わせる道化だけが上手くなった。今思えば、祖母が徹と離れたからと言って、心のなかにある息子の存在を薄れさせるわけがなかったのだ。俺はただ、自分の中で徹の存在が薄れてゆくのがとてつもなく怖かったのだと思う。きっと、祖母はわかった上でそんな俺に付き合ってくれたのだろう。

 

 磨ききったレンズやカメラたちが机に並ぶ様を見て、帰省すると決めてから、もう何度目かになる重い溜息を吐き出した。常ならば、悩み事を抱えていたとして、食って寝れば案外に次の朝にはスッキリしていたりする。根は単純なのだ。それ以上の悩みもレンズやカメラを磨いている内に頭がスッキリとしてくる。レンズ四本とカメラ二台を磨き切ってなお、頭を悩ますものに正直うんざりしてしまう。おもむろに天井を見つめてもう一度深い溜息を吐いた。溜息は幸せを逃すなんていうが、もう自分の身体に幸せなんて呼び込めないのではないか。そう思うくらいには溜息ばかり吐いている自覚はあった。明日のイメージトレーニングをそろそろせねばならないというのに、そんな想像力を働かせられる余裕がなく、だらしなく畳の上にゴロリとのびた。こんなにも頭を悩ませる根源は、随分と前からはっきりしている上に、それに対してどうにもならない事も、もう分かっているというのに。写真は真実を写し出すというのは本当だ。シャッターを切る者から見えている世界を切り取り、心情や思考、感覚までも写し出してしまい、同時に写り込むものの感情も切り取ってしまう。噓が吐けないのだ。見るものが見れば、どういった思考、心情でシャッターを切ったかという事が、一目瞭然にバレてしまう。隠そうとしているものや見せたくない感情すら一枚の画として現わしてしまう。たとえ見栄えが良くても心の核がぽろりと出てしまう。そういう残酷さがあるのだ。

 事態が動いたのは六月に入ってからだった。法の解釈が変わり、それが急に式の話に発展して、慌ただしく日程が決まったのは六月の末の事で、それに合せて予定を空けるためにそれまで持っていた案件を詰めたスケジュールに追われた。本当は、話を聞いた段階で今日までにゆっくりと気持ちを整理しようとしていた筈が、いざ予定を前倒しに詰め出すとそんな時間すら無く、全て予定を前倒して納品しきるまで必死だった。まだ時間もあるからとこの日までに先延ばしにし続けながら、最後の納品の遣り取りを終え、タクシーを捕まえて東京駅に駆けこんだのは乗車予定の新幹線が発車する五分前を切った時だった。構内を人目を気にせず必死に走り、車両に飛び乗って、気づけばこの有り様である。徹にどういう顔で会ったら良いのだと悩んだところで、結局勢いに流されてここ迄来てしまった。何故自分はもっとしっかりしていると錯覚していたのだろう。今になればそれすら滑稽で嗤えやしないが、そう錯覚していただけに落胆の度合いも酷いものだ。こんな状態でシャッターを切ったものに、一体何が写り込んでしまうのか、それが怖くて怯えてしまうのだ。断ち切れない未練に苦悩しつづけるのはもうこれで最後にしなければならないというのに。

 けれども時間は有限である。いよいよ迫りくるものに踏ん切りがつかないでいると、ふと、部屋の隅に置いてある本棚の一角に目が留まった。普段は目に入れない様にしてきたそれに、重い腰を上げて歩み寄ってみる。学生時代に買い揃えたバレー雑誌に、漫画、文庫本が並ぶそれらの前に立った。どの背表紙も幾年かぶりの懐かしさがあった。それらを指でゆっくりとなぞりながら買い揃えていた時期に想いを馳せていると、とある漫画シリーズの背表紙のところで指先が止まった。

 丁度、この奥だ。

 隙間なく詰め込んだ本棚からゆっくりと二巻分の漫画本を抜いた。すると、それが収まっていた箇所にぽっかりと空洞ができた。二巻分の漫画を手に、心臓が妙な鼓動を打ち出す。漫画本を持っている手が僅かに緊張に振るえたのが分かった。俺は静かに瞼を伏せて細く息を吐いた。ここに埋めたものをしっかりと確かめなくちゃならない。そんな気がしたのだ。慎重に先程出来た空洞を覗いた。暗がりの奥に、隠す様に並ぶ色褪せた布張りの背表紙が見えた。奥にもう何冊か有るのが見えて、手前の漫画本を数巻分抜き取って本棚の横に避けた。本棚の奥に隠した数冊のうちの一番古い一冊に慎重に手を伸ばす。指先が空洞の行き止まりに当たって布のざらりとした質感に触れた途端、気道が狭まってヒュッと喉が鳴った。空気が細くなった喉を通ってゆく嫌な感覚に眉を顰める。指先に神経を尖らせて背表紙を丁寧に確かめる様に撫で、真ん中付近にひとつだけ星の形の凹凸があった。これだ。するりと引き抜くと、一冊の、日に焼けた臙脂色のアルバムが蛍光灯の灯りに照らされて手の上に乗った。アルバムのずっしりとした重みを右手に感じなら、俺は一度閉じた瞼を時間をかけて開いた。そうして、鍵をかけて手の届かない様に目に触れぬ様にと、奥に仕舞い込んだ思い出の箱の蓋に手を掛けた。

プロット大事

やっぱりプロット大事だな…と、改めて思い知りました。

 

どうしても煮詰める前に走り出したい衝動に駆られてしまう…。

 

ということで、プロット編集アプリ探していたら色んなの出ているんですね…凄い…。

 

ブラウザツールのを使わせて頂きます。

凄い、事物設定、世界観、人物相関。あらすじ。書き込める!

しかもブラウザやから出先でも書き込めるの凄い…有難ぇ…

 

頭ん中にあった3つ分のプロットちまちま打ち込みだした。もう、忘却を恐れてずっと覚えておかなくていい!楽!!

😭😭😭

 

有難うございます。

 

三本、悉くシリアスですが…頑張って走りきろうと思う。

 

3/14 RTS!!31、ありがとうございました!

昨日のイベント、運営の皆様、参加された皆様、ありがとうございました。


4年ぶりのサークル参加、RTS!!に至っては初参加でしたが、久しぶりのイベントの空気が楽し過ぎました!


足を運んでくださり、本を手に取って頂いた皆様、差し入れ下さった上に楽しいお話までしていただいた神様…凄く嬉しかったです!本当にありがとうございました!


委託をさせて頂き、また自スペースのサポートもしてくれた琴町さん、本当にありがとうございました!


色んな大好きな気持ちが集まっていて、やはりイベントいいなぁ、としみじみ思いました。

実に楽しかった。また8月のインテも無事に参加出来るといいなぁ。

3/14新刊出ます

おはようございます。


気がつけばイベント当日…!

やさもさやっていた原稿がやっと終えれて新刊出せるようになりました…😭

良かった…😭


及影の人生のお話シリーズ。

バレーに触れてから中学の夏迄のはなしです。

原作をなぞっていますが、捏造に捏造を重ね、さらに重ねたお話になります。



イベント、初めからスペースにおります。

もし宜しければお立ち寄り頂けましたら幸いです。

ひとのあたたかさとぬくもりをわすれた頃に

仕事の忙しさで殺伐とした日々のなかだとどうしてもそう言ったものが忘れがちになるし、実際縁遠いものの様に思ってしまって日々やひとに素直になれず頑なに肘を張って踏ん張って居たりします。

 

そんな時にひとから頂くあたたかい言葉とか、お手紙に込められたあたたかさとか、友人の声とかに触れると凄く有難さが心に沁みるしぬくもりに泣きそうになる。

 

やさしいひと、の言葉はどんな形であれあったかいもんなんだ。

そう改めて思い知りました。

 

凄いなぁ。

 

そんな人間になりたいなぁ。

人間の汚い部分や狡い部分に荒んでいた心が晴れる。

あったかい言葉を頂いて、ほんとうに有難うございます。

 

明日も頑張る。