青きユピテルの幻光(進捗) 冒頭

 ちまちま書いて消して書いて消して継ぎ足して、みたいな、迷走しつつ。ここまで書けましたー、という報告です。

 

 

以下、冒頭です。

 

※及影前提の猛→徹、の猛視点のお話。

 

 

 

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 東京駅十六時五十六分発のはやぶさ百五号に飛び乗ったのは七月後半に入った茹だる様な暑さのなかだった。両足が車両に着地して数秒後、背後に締まる扉の気配に安堵して大きな息を吐いた。次いで急に思い出したかのようにドッと重い脈を打ち出した心臓が身体から飛び出んばかりに暴れ出し、汗が一気に毛穴から噴き出して流れ落ちた。ボタボタと床に大きな雫が数滴落ち、先に乗っていた乗客は、そんな俺を見て驚いた顔をした。それもそうだろう、タクシーの降り場から全走力をかけて駅の構内を突っ切り、改札口もエスカレーターも抜けて喉に掛かる息苦しさもはち切れそうなふくらはぎも叱咤してここまで走って来た。発車間際の車両に飛び乗って来たかと思えば、滝の様に汗を流して死にそうな呼吸を繰り返す男に警戒しないわけがない。「大丈夫ですか」心配そうな女性の声と共に差し出されたハンカチを手と首を僅かに振る事で何とか断った。リュックのポケットからタオルを取り出して止めどなく噴き出す汗を抑える、タオルの中で呼吸を落ち着けるようにゆっくりと息を吸い、肺を膨らませて細く息を吐いた。何度も繰り返すうちに随分と落ち着いたところで、いつの間にやら捻じれてしまったリュックの肩ひもを正して背負い直し、「大丈夫です」と顔を上げて出来るだけ柔らかな表情でそう返した。ハンカチを差し出してくれたのは、赤ちゃんを胸に抱えた二十代前半くらいの女性だった。「お騒がせしました」そう言うなり小さく微笑んだそのひとに会釈をして、車両内へと歩を進めた。なかは帰省する学生や旅行から帰る客で賑わっていた。随分と進んだところで、窓際にひとつ空席を見つけてやっとゆっくりと腰を下ろした。ずっしりと重量のあるリュックを背から下して腿のうえに置き、大事に抱えて、身体を座席の背もたれに深く沈みこませる。そのまま故郷までの道のりを新幹線に身を委ねて揺られながら、車窓の外を流れる景色を眺めた。夏の日は高く、こんな夕刻時の移動でもしっかりとした陽射しの強さがある。この時期、この時間帯の景色を見ては言い表しようのない焦燥を感じるのは、学生時代に打ち込んだものの影響に違いなかった。その日一日の授業を終えては、荷物の詰まったバッグを担いで体育館に向った。終業式を迎えてからは月曜以外の週六日、朝からとっぷりと暮れるまで。きっちりしごかれ、疲れた身体で頼りない街灯が家路の暗さを申し訳程度照らしているなか歩いた。嫌な思いも苦い思いも、心が躍り興奮した瞬間も、愉しい思い出も詰まった、あの尊い三年間を思い出しては今もじんわりと心に拡がってゆくものがある。懐かしい日々に思いを馳せていると、ジーンズのポケットが僅かに振動した。そこに入れていたスマホを取り出しつつ、微かとは言い難い緊張が走るのを感じながら、恐る恐る画面を見て、ホッと胸を撫で下ろした。

 

『ありがとう。道中気を付けて。皆待ってるよ』本日で三十七度目になる祝いに、今朝言葉を送ったものの返事だった。温かみと親しみが滲む短いメッセージに添えて、如何にも賑やかな我が家の様子が分かる一枚の写真が送られてきていた。元々の面子に、新たに加わった面々等、画面の向こう側は大層色んな声が飛び交っていそうな、そんな写真だった。写っている全員が弾けんばかりの笑みに、または不器用ながらの精いっぱいの笑みに溢れていた。いい写真だ。画面を眺めて、そう俺は思った。たった三文で出来たメッセージを開くのに緊張し、読んで安堵する。未だ、自分のなかでの繊細な位置にいる叔父という存在の大きさを知らしめるに充分だった。俺は自分への呆れを吐き出すように大きな溜息をひとつして、もう一度車窓の外を眺めた。胸に今も残る複雑な感傷などお構いなしに風景が物凄い勢いでどんどんと後方へと流れてゆく。こんな速さでは旅情も何も無いだろうな。胸に抱えたものとは裏腹にそんな考えが頭を過ぎって、静かに揺られながら目まぐるしく変わっては流れ去ってゆく風景に没頭した。

 

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 仙台駅のプラットホームに緩やかに車両が進入し静かに止まったのは定刻通りの十八時二十九分の事だった。到着を知らせるアナウンスが流れ、まばらに降車の準備をする他の乗客たちと一緒に腿に乗せていたリュックを後ろに背負って、淡々と車両からプラットホームへと足を降ろした。乗客たちの流れに沿って改札を抜け、駅の構内より一歩外に出ると、漸く夏の仙台の涼しい湿った風が頬を撫でた。ヒグラシの物憂げな鳴き声を受けながら、暮れかかってゆく淡い空とオレンジの陽の色に薄く染まる雲を仰ぎ見て、ゆっくりと大きく息を吸う。東京とは違って木々の香りが混ざる空気に、仙台の穏やかな夏の気配を感じて、およそ半年ぶりになる故郷の地を踏んだ実感がやっと湧いてきた。じんわりと来る懐かしさと、生まれ育った土地に帰って来た安心感がゆるやかに胸に広がってゆくのを感じながら先ほどのメッセージに返信を打った。『今仙台駅に着いた。これからタクシーで帰る』送って暫くしてスマホがまた揺れた。『はーい』短い上に、四捨五入すれば齢四十になる男の返信としては幼く、且つ軽く感じる。実際にそう口にした様子が容易に想像できて、思わず小さく噴き出した。久方ぶりの再会に、胸が躍る。それと同時に不安もよぎる。一体、俺は、どんな顔をして徹に会えばいいのだろうか。それが俺にとっては一番手前に見える厄介な難題にも見えた。

 

 

 胸の中の複雑な感傷など些末なものに過ぎないのではないか。久々の帰省で辿り着いた実家に歓迎されて、あれよあれよと賑やかな宴の中に引き込まれ揉みくちゃにされ、数時間後に酔いつぶれた祖父をその輪から引きずり出して布団に寝かせ、「はぁ」と溜息を吐きながら、そう思わずにはいられなかった。我が家の面々は皆朗らかで賑やかで、安らぎや静けさなんてものとは縁遠いもののように思える。そうした環境のなかで育ったせいもあるのか家族のなかでは流されやすい性質もそれを加速する要因でもあるとは思うが、そうした悩みなど頭の隅に追いやってしまいそうなエネルギーが漲っている。家のドアノブに手をかけるまで確かにあった感傷も難題も、賑やかさと及川家の喧騒に流されていつの間にやら追いやられてしまっていた。家族は久々に帰って来た徹に喜び、また寿ぎに夢中になっていた。そんな中で、流され追いやられていた筈のものがまだ何処かに残っていて、それが少しの気後れを生んで、心からの祝いにならずに踏み切れずにいる自分が嫌でもあった。酔いが回って頬を染めて幸せそうに眠る祖父の顔を確認して、祖父母の寝室から宴会会場へと向かい、そっと障子戸から顔を覗かせて、「俺、明日の準備もあるから。この辺で」と自室に戻る事を告げると、本日の主賓はほろ酔い加減で機嫌良く、にへら、と間の抜けた笑みを向けて手を振った。祖父譲りかそう酒に強くない相手に表情も無いまま「はぁ」とまたもや溜息が出る。弱いにも拘らず、何故人間は嬉しいと酒を酌み交わしたがるのか。祖父にしろアイツにしろ、明日面倒な事にならなきゃ良いけどな。そんな一抹の不安が頭を過ぎり、俺は頬を引き攣らせながらそっと座敷の戸を閉めた。

 

 久々の自室に、深く息を吸い込むと懐かしい畳の匂いがふわりと香って、肩に入っていた力が抜けていくのを感じた。家族の歓迎とは別の、変わらずここにあるという居場所の存在がひとつの安定した平穏をもたらすものでもあり、心に多少のくすぐったさを感じる。不変の安定感がホッと緊張を解してくれる、そんな気がする。先ほどの賑やかさが遠退いて、この半年の疲れを解す様に一度大きく伸びをした。東京から大事に背負ってきたリュックを静かに開いて部屋の隅に置かれた文机の前に腰を降ろした。圧縮袋に詰め込んだ着替えと、カメラ二台と予備を含めたレンズ四本とバッテリーをひとつずつ丁重に取り出して机の上に置いてゆく。ずらりと並んだそれらを端からひとつひとつ細部まで丁寧に確認し、汚れと動作確認まで一通り行って、リュックからクリーニングキットを取り出した。事前に東京の自宅で一通りの手入れをしてはいるが、撮影に備えての一種の精神統一の様なルーティンでもあるし、機材と向き合う対話の様なこの時間が自分にとってはある種の儀式に向かう前の禊の様にも思っている節がある。ブラシでゆっくりと埃を払う小さな音が静かに響く。相棒を丁寧にブラッシングして小さな傷すら大事に撫でてゆく。この時間が好きだ。ブロワーで隙間に入り込んだ細かな埃を飛ばし、レンズの小さな汚れひとつなく拭き上げる。レンズを拭く際には息を止めて指先に細心の注意を払う。そうしてレンズを確実に磨き上げていくうち、いつの間にか上唇の端を舐める様にぺろりと舌が出ていた。最後の一本を磨き終わって、机にゆっくり置いた際にその事に気が付いた。「性格もまったく似ていないのに、そういう所は似るのかね」小学六年の夏の課題に集中してる時に祖母が優しい苦笑を洩らしながら口にした言葉だ。誰に。そう問う前に頭に浮かんだ顔があった。祖母がそういう少し苦く優しい微笑みを浮かべる時は決まって叔父の事を思い出す時だ。豪気で真っ直ぐな祖母にそんな表情は似合わないと子どもながらに思ったもので、その度に何かが胸につっかえては軋む苦さを噛みしめた。少し寂しそうな表情に何とも言い難いものが込み上げて、俺は決まって「おばあちゃん、おやつ!」と唐突に強請り、先ほどまで寂しそうだった祖母は、そういうと「本当に猛は」と、小さく噴き出しながら戸棚から菓子を出してくれたのだ。よく懐いた叔父に似ているという嬉しさは、同時に寂しさの呼び水となってしまう。手放しで喜べないストッパーが、心の何処かにいつの間にか出来ていた。けれども祖母の感傷の呼び水になるからと言って、一緒に育った時間の分だけ、仕草が似てしまう事は致し方が無かった。無自覚にそれらが出てしまう時、そしてその瞬間に祖母と自分の脳裏には叔父の姿が甦るのだ。そうして確かに叔父との思い出を懐かしむ祖母に叔父の存在を寄り添わせる事が、果たして良い事か悪い事か判然としなかった。心にはほんの些細な靄が出た。無自覚に出てしまう無意識の仕草は、もしかすると、『祖母に徹を忘れて欲しくない』と言った深層心理での欲求が有ったのかもしれない、と最近になって思うのだ。叔父を彷彿とさせるそれらの仕草で祖母がそんな表情をする度、互いに自傷してしまう様な感覚もあったというのに、自分のなかにある徹と似たそれらを重ね合わせ、叔父を懐かしんで苦笑を洩らす祖母を無理やりに笑わせる道化だけが上手くなった。今思えば、祖母が徹と離れたからと言って、心のなかにある息子の存在を薄れさせるわけがなかったのだ。俺はただ、自分の中で徹の存在が薄れてゆくのがとてつもなく怖かったのだと思う。きっと、祖母はわかった上でそんな俺に付き合ってくれたのだろう。

 

 磨ききったレンズやカメラたちが机に並ぶ様を見て、帰省すると決めてから、もう何度目かになる重い溜息を吐き出した。常ならば、悩み事を抱えていたとして、食って寝れば案外に次の朝にはスッキリしていたりする。根は単純なのだ。それ以上の悩みもレンズやカメラを磨いている内に頭がスッキリとしてくる。レンズ四本とカメラ二台を磨き切ってなお、頭を悩ますものに正直うんざりしてしまう。おもむろに天井を見つめてもう一度深い溜息を吐いた。溜息は幸せを逃すなんていうが、もう自分の身体に幸せなんて呼び込めないのではないか。そう思うくらいには溜息ばかり吐いている自覚はあった。明日のイメージトレーニングをそろそろせねばならないというのに、そんな想像力を働かせられる余裕がなく、だらしなく畳の上にゴロリとのびた。こんなにも頭を悩ませる根源は、随分と前からはっきりしている上に、それに対してどうにもならない事も、もう分かっているというのに。写真は真実を写し出すというのは本当だ。シャッターを切る者から見えている世界を切り取り、心情や思考、感覚までも写し出してしまい、同時に写り込むものの感情も切り取ってしまう。噓が吐けないのだ。見るものが見れば、どういった思考、心情でシャッターを切ったかという事が、一目瞭然にバレてしまう。隠そうとしているものや見せたくない感情すら一枚の画として現わしてしまう。たとえ見栄えが良くても心の核がぽろりと出てしまう。そういう残酷さがあるのだ。

 事態が動いたのは六月に入ってからだった。法の解釈が変わり、それが急に式の話に発展して、慌ただしく日程が決まったのは六月の末の事で、それに合せて予定を空けるためにそれまで持っていた案件を詰めたスケジュールに追われた。本当は、話を聞いた段階で今日までにゆっくりと気持ちを整理しようとしていた筈が、いざ予定を前倒しに詰め出すとそんな時間すら無く、全て予定を前倒して納品しきるまで必死だった。まだ時間もあるからとこの日までに先延ばしにし続けながら、最後の納品の遣り取りを終え、タクシーを捕まえて東京駅に駆けこんだのは乗車予定の新幹線が発車する五分前を切った時だった。構内を人目を気にせず必死に走り、車両に飛び乗って、気づけばこの有り様である。徹にどういう顔で会ったら良いのだと悩んだところで、結局勢いに流されてここ迄来てしまった。何故自分はもっとしっかりしていると錯覚していたのだろう。今になればそれすら滑稽で嗤えやしないが、そう錯覚していただけに落胆の度合いも酷いものだ。こんな状態でシャッターを切ったものに、一体何が写り込んでしまうのか、それが怖くて怯えてしまうのだ。断ち切れない未練に苦悩しつづけるのはもうこれで最後にしなければならないというのに。

 けれども時間は有限である。いよいよ迫りくるものに踏ん切りがつかないでいると、ふと、部屋の隅に置いてある本棚の一角に目が留まった。普段は目に入れない様にしてきたそれに、重い腰を上げて歩み寄ってみる。学生時代に買い揃えたバレー雑誌に、漫画、文庫本が並ぶそれらの前に立った。どの背表紙も幾年かぶりの懐かしさがあった。それらを指でゆっくりとなぞりながら買い揃えていた時期に想いを馳せていると、とある漫画シリーズの背表紙のところで指先が止まった。

 丁度、この奥だ。

 隙間なく詰め込んだ本棚からゆっくりと二巻分の漫画本を抜いた。すると、それが収まっていた箇所にぽっかりと空洞ができた。二巻分の漫画を手に、心臓が妙な鼓動を打ち出す。漫画本を持っている手が僅かに緊張に振るえたのが分かった。俺は静かに瞼を伏せて細く息を吐いた。ここに埋めたものをしっかりと確かめなくちゃならない。そんな気がしたのだ。慎重に先程出来た空洞を覗いた。暗がりの奥に、隠す様に並ぶ色褪せた布張りの背表紙が見えた。奥にもう何冊か有るのが見えて、手前の漫画本を数巻分抜き取って本棚の横に避けた。本棚の奥に隠した数冊のうちの一番古い一冊に慎重に手を伸ばす。指先が空洞の行き止まりに当たって布のざらりとした質感に触れた途端、気道が狭まってヒュッと喉が鳴った。空気が細くなった喉を通ってゆく嫌な感覚に眉を顰める。指先に神経を尖らせて背表紙を丁寧に確かめる様に撫で、真ん中付近にひとつだけ星の形の凹凸があった。これだ。するりと引き抜くと、一冊の、日に焼けた臙脂色のアルバムが蛍光灯の灯りに照らされて手の上に乗った。アルバムのずっしりとした重みを右手に感じなら、俺は一度閉じた瞼を時間をかけて開いた。そうして、鍵をかけて手の届かない様に目に触れぬ様にと、奥に仕舞い込んだ思い出の箱の蓋に手を掛けた。